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アニメ「信長の忍び」② 信長の忍びと真田丸

前回の分類分けの続き。

postplan.hatenablog.jp

 

歴史をモチーフにした作品の中から、作者の創作性に注目して分類分けを行った。

「1. 史実に対して根拠を持つ歴史物語」「2. ストーリーとしては史実に沿いながら、オリジナリティーのあるもの」を比べると、基本的なストーリーの流れは変わらない。ただし、一人称か三人称かという視点は重要である。

歴史物語では一人称を用いると伝記になり、三人称を用いると群像劇にはっきりと分かれる事が多い。その上で、史実にとらわれないオリジナルキャラを登場させた歴史ものでは、オリキャラ一人称でありながら群像劇を描くことや、伝記ものでありながらオリキャラから見た疑似的な三人称として描くこともできる。

この違いは案外大きく、読み手の意識に影響を与える。伝記のような作品は一般的に偉人をメインに置くことが多く、偉人ゆえに一般の読者が感情移入しにくいという問題が生じやすい。群像劇は登場人物も多くなり、歴史の全体像を描くことができる反面、重厚な大作になりやすい。

ギャグ作品という分野で作品を作る場合はできる限り共感性を高めるため、上記のような大型作品にならないように抑える必要がある。ここで、オリジナルキャラを登場させることによってバランスを調節する役割を与えることができる。歴史作品の壮大なワクワク感とギャグとしての細かい笑いを両立させるのだ。

信長の忍び」の主人公の千鳥自体は自由に動き回れる存在であり、キャラ自体はすでに確立しているので主人公の成長が主題になっていない。それを取り巻く織田信長などのキャラクターを際立たせる役割がメインである。

 

その上で、現在話題になっているNHK大河ドラマの「真田丸」も主人公の真田信繁(幸村)を中心として群像劇を描く作品とさせる試みが見られる。真田信繁自体は実在の人物であるが、大坂の陣までの動向はよくわかっていない。それを逆手に取り、主人公でありながら成長(活躍)の場面を中心に描かず、それ以上に取り巻きの偉人の魅力の方を大きく描いている。このことから、私は真田丸」を幸村の伝記ではなく戦国時代の群像劇だと考えている。そのことにより、父の真田昌幸徳川家康豊臣秀吉などの癖のあるキャラクターが作る笑いを誘いだすこともできる。

もし、幸村の成長を主題に置いた伝記ものであれば、周囲のキャラクターはインパクトを抑えつつ主人公を引き立てる役割が課される。そのような作品でネタとしての笑いを描くと、伝記ものでは1対1の関係性が重要なため、必ずその笑いは主人公に跳ね返ってくる。少しなら問題ないが、それが続けばいつか作品自体に興ざめるようになる。群像劇でかつ主題と関係のないところで起こる笑いを描かなくてはならないのである。そういう視点で見れば、「真田丸」は絶妙なさじ加減で成立している。(厳密にいえば、青年期~関ケ原は幸村は偽主人公。九度山以降は成長する主人公だが、この考察はいずれの機会に。)

同様の視点で、「3. 史実をモチーフにした創作作品」として挙げた作品を見てみると、「薄桜鬼」の雪村千鶴や、「織田信奈の野望」の相良良晴などのキャラがその役割を担っている。

「4. 架空歴史(架空戦記)もの」であれば逆に一転して、明確な群像劇や主人公の成長する伝記ものが多くなる。「紺碧の艦隊」「旭日の艦隊」「戦国自衛隊」「戦国BASARA」「ジパング」など

 

 作品の目的と狙いを明確にすることにより、視点を変えるということは重要であり、歴史ものの一群でも同様の切り口で考えてみると面白い。

次回は「信長の忍び」を脚本、音楽、演出などで詳しく見てみようと思います。