消費社会を超えて行け(物と心の豊かさとは?)
物の豊かさと心の豊かさのバランスが大切なのかどうか。
豊かに生きるというのは永遠のテーマでもあり、その豊かさはどれぐらいの割合で心と物の豊かさが必要かは議論の分かれるところである。
物欲を完全に否定するということ
物欲を完全に否定して、清貧さを肯定する考えもある。
これは、物欲は無限に増殖するものであり、どんなに物欲を満たす消費行動を行ても満足することはないという前提に立った理論でもある。
つまり、満たすことのできない物欲に支配される状態から脱するには、物欲を完全に捨てて清貧な生活を行うことこそが唯一の道であると考える人もいる。
この考えは宗教的な教義と結びつくことも多く、仏教の僧侶の修行やアーミッシュ、あるいはオウム真理教などの例を出すこともできる。一般的な人の中ではどうも清貧さが幸せに結びつくと安易に考えることはできない。
心と物のバランス理論
一定の物欲に関しては我慢する(物欲を否定する)のではなく、それを満たすことが必要であるということは理解できる。また、清貧さの例のように、物欲に支配されるのはよくないと考えることもできる。要は、心の豊かさと物の豊かさのバランスが重要という考え方である。
心の豊かさを補完するための物の豊かさ理論【補完理論】
心の豊かさと物の豊かさ。「心の豊かさを補完するための物の豊かさ理論」と「心と物のバランス理論」。アプローチが違っても意味することろは同じ。心も物も重要。ただ、樽の中の哲学者じゃないけど、心に特化した幸せなヤバイ奴もいる。
— kikanet@森 (@kikanet1) 2017年6月25日
前述の心の物のバランスが重要という考え方に似ているのであるが、バランスよりも心の豊かさが中心にあって、その心の豊かさを維持するために物の豊かさを頼るという考え方である。
消費社会が発展する先はいつでもどこでも一定の品質のものが簡単に手に入る社会であり、一見してそれ自体が豊かな社会に思えるかもしれない。
ただ、食べ物を例にしたとき冬に温室で栽培されたスイカを食べたり、遺伝子組み換えで数か月も腐らないトマト(フレーバーセーバートマト)を保存して、好きな時に食べられることが豊かであるという考えにもなる。
この価値観についても否定することはできないし、便利な社会であるということは間違いのない事実である。
でも、何か違和感を感じるのは確かである。
やはし、旬の時期に旬の食べ物を食べながら誰かと会話できることが豊かであるという考えの方がしっくりくる。
結局物の豊かさだけを追い求めるのではなく、心の豊かさが重要であり、それを補完するための物の豊かさを重視することが重要なのかもしれない。