今更ながらスマートノート【例の岡田斗司夫】
カールじいさんの空飛ぶ家
ボーイスカウト関係者に見てもらいたい映画・アニメ
「カールじいさんの空飛ぶ家」
対象:ビーバー ~ カブスカウト(小学生年代)
あらすじ
いつか世界を旅して回りたいと思っていたカールも、今や78歳。最愛の妻は亡くなってしまい、夢をかなえるには年を取り過ぎている。しかし、何と数千の風船を家に結びつけ、空高く飛び立つことに成功。カールは8歳の少年ラッセルとともに冒険の旅へと出発する。 (シネマトゥデイより)
トイストーリから始まるピクサー作品は常に子供と一緒に安心して見れる作品である。おもちゃ、昆虫、熱帯魚、(ちょっとかわいい)モンスター、ヒーロー、クルマなど子供が好きなテーマを中心とした作品がある。
それに比べて、カールじいさんの空飛ぶ家の主人公は「変わり者のおじいさん」であり、他の作品と比べても異質である。確かに、映画を見る前はとっかかりにくそうに思ったが、映画が進むにつれてまさにピクサーの作品の面白さを感じることができた。この作品は今までにない時間的、空間的に大きく広がる物語にもなり、人生の尊さを考えさせられる物語でもある。
カールじいさんと一緒に冒険の旅に出る少年ラッセルは自然探検隊の隊員であり、最後の一つである「お年寄りのお手伝いバッジ」を手に入れるためにカールじいさんの家を訪問する。明示されているわけではないが、ボーイスカウトがモデルにされ、8歳という年齢からビーバースカウト・カブスカウトぐらいだと考えられる。
ボーイスカウトではバッチを使った進級制度を採用している。しかし、単に集めるという事が重要ではなく、そのバッチを得るために経験したことが、今後の人生の糧になる。このカールじいさんの空飛ぶ家の少年ラッセルは「お年寄りのお手伝いバッジ」を手に入れるための冒険で、どういう成長をしてくれるのか注目してください。
アニメ「信長の忍び」③ 全体の感想
歴史ものの分類分けをして「信長の忍び」について解説をした。
では、作品の詳細について考えてみようと思います。
改めて、第0話を見ていただきたい。
忍びの千鳥と織田信長な掛け合いが中心になっている。
作画を見ると動き自体はあまりなく、背景も単純なものになっている。輪郭に対して太線の処理がされていること以外、5分アニメとしては平均的な作画といえる。
4コマ漫画を原作にしているため、10秒から20秒でオチが付くような軽快なテンポで見ることができる。この辺りについて気になることは見当たらない。
特筆すべきところはやはり音楽であり、使われている曲の種類こそ多くはないが、耳に残る曲がうまく使われている印象である。特に5年後(動画で2:40)から始まる登場人物の紹介は絵だけでキャラの性格などを伺い知ることができる。
音楽は増田俊郎氏、音響監督たなかかずや氏という蟲師のコンビが手がけているというところから納得できる。
その上で大地丙太郎氏が監督している。大地監督の作品についてはあまり見る機会がなく、ギャグアニメが多いという予備知識と「今、そこにいる僕」を見たことしか知らない。
一般的にはギャグアニメの監督ではあるが、「今、そこにいる僕」を見た私の印象では鬱アニメの監督という位置づけになっている。
原作本でも指摘されているが、ギャグマンガでありながら裏切りや人殺しが行われている戦国時代の暗い部分も描くという試みが行われている。監督自体もギャグアニメ一辺倒でない点などにかなり期待したい。
現在桶狭間の戦いが終了した時点であり、今後のストーリー展開について期待せざるを得ない。
アニメ「信長の忍び」② 信長の忍びと真田丸
前回の分類分けの続き。
歴史をモチーフにした作品の中から、作者の創作性に注目して分類分けを行った。
「1. 史実に対して根拠を持つ歴史物語」と「2. ストーリーとしては史実に沿いながら、オリジナリティーのあるもの」を比べると、基本的なストーリーの流れは変わらない。ただし、一人称か三人称かという視点は重要である。
歴史物語では一人称を用いると伝記になり、三人称を用いると群像劇にはっきりと分かれる事が多い。その上で、史実にとらわれないオリジナルキャラを登場させた歴史ものでは、オリキャラの一人称でありながら群像劇を描くことや、伝記ものでありながらオリキャラから見た疑似的な三人称として描くこともできる。
この違いは案外大きく、読み手の意識に影響を与える。伝記のような作品は一般的に偉人をメインに置くことが多く、偉人ゆえに一般の読者が感情移入しにくいという問題が生じやすい。群像劇は登場人物も多くなり、歴史の全体像を描くことができる反面、重厚な大作になりやすい。
ギャグ作品という分野で作品を作る場合はできる限り共感性を高めるため、上記のような大型作品にならないように抑える必要がある。ここで、オリジナルキャラを登場させることによってバランスを調節する役割を与えることができる。歴史作品の壮大なワクワク感とギャグとしての細かい笑いを両立させるのだ。
「信長の忍び」の主人公の千鳥自体は自由に動き回れる存在であり、キャラ自体はすでに確立しているので主人公の成長が主題になっていない。それを取り巻く織田信長などのキャラクターを際立たせる役割がメインである。
その上で、現在話題になっているNHK大河ドラマの「真田丸」も主人公の真田信繁(幸村)を中心として群像劇を描く作品とさせる試みが見られる。真田信繁自体は実在の人物であるが、大坂の陣までの動向はよくわかっていない。それを逆手に取り、主人公でありながら成長(活躍)の場面を中心に描かず、それ以上に取り巻きの偉人の魅力の方を大きく描いている。このことから、私は「真田丸」を幸村の伝記ではなく戦国時代の群像劇だと考えている。そのことにより、父の真田昌幸、徳川家康、豊臣秀吉などの癖のあるキャラクターが作る笑いを誘いだすこともできる。
もし、幸村の成長を主題に置いた伝記ものであれば、周囲のキャラクターはインパクトを抑えつつ主人公を引き立てる役割が課される。そのような作品でネタとしての笑いを描くと、伝記ものでは1対1の関係性が重要なため、必ずその笑いは主人公に跳ね返ってくる。少しなら問題ないが、それが続けばいつか作品自体に興ざめるようになる。群像劇でかつ主題と関係のないところで起こる笑いを描かなくてはならないのである。そういう視点で見れば、「真田丸」は絶妙なさじ加減で成立している。(厳密にいえば、青年期~関ケ原は幸村は偽主人公。九度山以降は成長する主人公だが、この考察はいずれの機会に。)
同様の視点で、「3. 史実をモチーフにした創作作品」として挙げた作品を見てみると、「薄桜鬼」の雪村千鶴や、「織田信奈の野望」の相良良晴などのキャラがその役割を担っている。
「4. 架空歴史(架空戦記)もの」であれば逆に一転して、明確な群像劇や主人公の成長する伝記ものが多くなる。「紺碧の艦隊」「旭日の艦隊」「戦国自衛隊」「戦国BASARA」「ジパング」など
作品の目的と狙いを明確にすることにより、視点を変えるということは重要であり、歴史ものの一群でも同様の切り口で考えてみると面白い。
次回は「信長の忍び」を脚本、音楽、演出などで詳しく見てみようと思います。
アニメ「信長の忍び」① 「分類分け」
信長の忍びというアニメがじわじわと注目されている。
この作品については、ニコニコ生放送の新作アニメのPV鑑賞会において、第0話を初めて見た時の印象がすごく残った。
信長の忍び第0話
本作は一応、歴史をテーマとした作品の一群に分類されるだろう。
歴史を題材とした作品には明るくはないため、例として出す作品に偏りがあるものの、いくつかの分類分けをすることはできる。
- 史実に対して根拠を持つ歴史物語
「学習まんが日本の歴史シリーズ」「横山光輝 三国志」「キングダム」など - ストーリーとしては史実に沿いながら、オリジナリティーのあるもの
「信長の忍び」「ベルサイユのばら」など - 史実をモチーフにした創作作品
「薄桜鬼」「織田信奈の野望」など - 架空歴史(架空戦記)もの
「紺碧の艦隊」「旭日の艦隊」「戦国自衛隊」「戦国BASARA」「ジパング」など - 一部の物語、歴史用語だけを引用したもの
「スキヤキ・ウエスタン ジャンゴ」など
基本的に1~3の分類については程度問題であるため、はっきりとした境界を引くことはできない。そのうえで要点をまとめると、
1. 史実に対して根拠を持つ歴史物語
史実通りかどうか、学説の主流・傍流を議論し始めるとかなりややこしい話になるため、純粋に根拠のあるストーリーを目指しているかどうかが、重要であると考えられる。例に出した「横山光輝 三国志」は三国志演義という創作物をモチーフにしているが、作者の意識としてはオリジナルの登場人物やストーリー展開は入れていない。
当然といえば当然なのであるが、伝記作品か群像劇という物語が多くなり、登場人物が多くなりがちである。
2. ストーリーとしては史実に沿いながら、オリジナリティーのあるもの
主人公クラスに創作の人物を作ることによって、さまざまな場所に自由に移動させて、歴史の目撃者として介入させる効果がある。1の分類よりもクローズな関係性を構築することができるため、群像劇よりも1対1の関係を重視した作品として構築させることができる。
3. 史実をモチーフにした創作作品
この作品群については、切り口が多種多様であり一概に共通点を見出すことはできない。ただし、勝者と敗者の存在など、大きな物語の流れは史実通りになってくる。
4. 架空歴史(架空戦記)もの
歴史のifを描く作品群であり、タイムスリップという要素が加わることも多い。
5. 一部の物語、歴史用語だけを引用したもの
「スキヤキ・ウエスタン ジャンゴ」は歴史ものという分類に入らないような気もするが、平家と源氏の登場人物がいる。
以上のような分類をすることができる。それぞれの分類の作品にも特徴を見出すことができ、この特徴を作品分析の手助けにしたい。
次の機会では「信長の忍び」とほかの作品と比較しつつ歴史ものについて分析しようと思います。
トレイルランの環境破壊から見る登山道のあり方
昨日にオリエンテーリングの話をしながら、Yahoo!の記事よりハイキングやトレイルランのマイナスの側面について取り上げます。
記事について。
舗装で起伏のある山道を走る「トレイルランニング(トレラン)」。大自然の中を走り抜ける爽快感や冒険性を備え、近年人気が高まっている競技だ。埼玉県内では秩父地域を中心に大会が開かれ、宿泊者増など経済効果をもたらしている。その一方でトレイルランナーによる登山道の損傷や遭難事故も起きており、地元の関係者は頭を悩ませている。
9月18、19日に秩父市大滝で行われたトレランの大会「第19回雁坂峠越え秩父往還145キロ」では、雨の影響もあって登山道が大きく損傷。県秩父環境管理事務所は主催者に登山道の補修を要請し、主催者は来年の大会の中止も決めた。
議論するべきなのは
- マナーやルール、技術体力の面
- 環境破壊の面
で分けて考えなくてはならない。
1つ目のマナーやルールの設定はすぐにでも取り組むことができる。ハイキングやトレラン主催者が事前エントリーや当日の参加者に対し厳格に対応すればいい。具体的な例を挙げればきりはないが、遭難対策には分岐地点の案内を徹底したり、一定の地図読みスキルを参加条件にしたり、体力面での基準を明確化したりできる。登山者とのすみ分けのできるコースを決めたり、追い抜きには声をかけるマナー(鈴などの鳴り物を義務にするなども)。色々な例を挙げることが可能だ。つまるところ、マナーをルールとして強制することができればよい。
そのうえで2つ目の環境破壊に関しては対策が難しい。登山経験者ならなんとなく理解していただけると思うが、岩場やガレ場(岩石がごろごろしている道)を除いた登山道において道が荒れる原因に雨が関係している場合が多い。
土がメインの道において晴れている日であれば、100人が通過してもそんなに道の形が変わることはない。ただ、雨の日にぬかるみを歩けば1人でもで道が荒れ始める。その上、荒れた道が谷のようになり他の斜面から水が流れ込むと川のようになり地面が削り取られる。さらに、そのような荒れた道を避けるために登山客が迂回ルートを作り、荒れた登山道が広がるような負のループに突入する。
このことに関しては登山道整備の資金が集められる仕組みを作るしか方法はないようにも思える。街の道路が公共財であるのと同じように登山道も準公共財として管理することも考えなくてはならない。
社会の利便性を向上させるために、道路は公共のものであり、その整備は国や地方自治体が責任を負っている。
博多の例を出すわけでもないが、例えば家の近くに大穴があいたとき、道路自体が私財(私有物、私道)であった場合、身銭を切って家の近くの道を修理する人は少ない。個人の最善の選択肢としては、莫大なお金を使って修理するよりは、少し時間がかかるがう回路を利用するなど対応するだろう。ただ、このまま町の道路が荒れ果てて、他の場所にも同様の大穴が発生すると街の人々がう回路に殺到し、渋滞が発生するなど全体の利便性が大きく損なわれる。
経済学用語に合成の誤謬(ごびゅう)という考えがあり、個人が合理的な選択をしても、全体としては悪い結果を及ぼすという考え方がある。道路が公共財として扱われるのはそのような理由でもある。
環境破壊に関しても同じような理論が成立し、登山道の破壊が進んでいることを嘆いても問題は解決しない。入山制限をすること以外は、修繕のコストを徴収する仕組みを作り、登山道の整備を行うしかない。
受益者負担の原則から考えても、様々な山で導入され始めている入山料という取り組みに期待するほかない。入山料の仕組みが成立しないままの状況が進めば、いずれかの時期に私有地を通る登山道において通行禁止が行われる流れが起こるのではないかという危惧もある。ハイカーやランナーがこれからも山で楽しめるようにするにはしっかりとした仕組みを作らなければならないだろう。